私が競馬に興味を持つようになった一番初めのきっかけはライスシャワーでした。
今回は彼についてざっくり紹介します。
血統と生い立ち
1989年3月5日、北海道の社台ファームで誕生しました。彼の父はリアルシャダイ、母ライラックポイント(母父:マルゼンスキー)。この世代はリアルシャダイ産駒が結構席巻していた印象があります。(シャダイカグラやイブキマイカグラなどなど・・)
とても素直で人に従順な性格だったと言われていますね。(カワイイ)
お顔もとってもカワイイ。小柄で頑張りやさん。
だからこそ最後のレースにはやっぱりいろんな思いがあります。彼の産駒がいたらどうなっていただろうな・・と思わずにはいられません。
デビューからクラシックへ
1991年8月。新潟で初勝利を挙げましたが、次走の新潟3歳Sではまさかの11着。しかし次走の芙蓉Sで勝利し、1992年のクラシックシーズンに向けて着々と力をつけていきました。
- 1992年日本ダービー
あまり語られないけれど個人的に取り上げたいのが日本ダービー。ライスシャワーを知っている人でもあまり印象に残っていないレースかもしれない。新馬戦、芙蓉Sの二戦で一着を取ったもののそれ以外の新潟3歳S、スプリングS、皐月賞、NHK杯は4着が一度あるだけであとは掲示板にも載らないほどの戦績だったのもあるのか、錚々たる面々が集う日本ダービー、当日は16番人気。それでも彼はミホノブルボンと0.7秒差の2着に。馬連29,580円の波乱を演出しました。
- 1992年 菊花賞
やはりライスシャワーの名を一躍全国に知らしめたのは、1992年の菊花賞(GI)でしょう。このレースは、クラシック三冠を目指すミホノブルボンとの対決が注目されていました。ミホノブルボンは既に皐月賞と日本ダービーを制し、圧倒的な人気を集めていましたが、ライスシャワーはその実力を発揮し、3分5秒0というレコードタイムで勝利を収めました。この勝利は、単なる一戦ではなく、ライスシャワーが一流のステイヤーであることを証明しました。
- 1993年 天皇賞(春)
翌年、ライスシャワーはメジロマックイーンとの対決の舞台に立ちました。1993年の天皇賞(春)(GI)は3200メートルの長距離戦であり、ステイヤーとしての真価が問われるレースです。ライスシャワーはこのレースでも粘り強い走りを見せ、メジロマックイーンを破って勝利しました。彼の勝利は、彼がただの偶然の勝者ではなく、本物の実力を持つ競走馬であることを再確認させました。
挫折と復活
ライスシャワーのキャリアは順調なものばかりではありませんでした。
天皇賞(春)以降、2着など惜しい結果は出せても勝利から遠ざかる時期が続きました。特に1993年のジャパンカップでは14着と大敗し、一部のファンからは終わった馬だと引退を求める声も聞こえるようになりました。
勝ち星から遠ざかること2年、諦めなかった彼は天皇賞(春)2周目3コーナーからのロングスパートで勝負をかけ、ステージチャンプをハナ差退けて復活の勝利をあげたのです。
その次走は人気投票1位という支持、阪神大震災の影響で彼の得意な京都開催になったこともあり、1995年の宝塚記念に挑戦することになりました。結果的にこれが彼の最後のレースとなってしまったのです。
1995年 宝塚記念での悲劇
彼は既に6歳を迎え、ベテランの域に達していました。このレースで彼の引退を見届けようと多くのファンが期待していました。しかし、レース中に故障が発生、馬運車にも乗れないほどの致命的な骨折。誰の目から見てももう悲しい結末しか予想できない姿。その場で暗幕が張られ、ファンや関係者の見守るなか、安楽死処分となりました。この悲劇は競馬界全体に深い悲しみをもたらし、彼の死を悼む声が全国に広がりました。
ライスシャワーの遺産
ライスシャワーの競走成績は34戦6勝。
彼が競馬界に残した遺産は計り知れません。彼の走りは、多くのファンに感動と勇気を与えました。特に、彼が見せた粘り強さと不屈の精神は、多くの人々に印象づけられました。また、ミホノブルボンの3冠阻止、メジロマックイーンの連覇を阻止したレースは、競馬史における伝説的な名勝負として語り継がれています。
ライスシャワーの名前は、幸福をもたらすものとしての意味を持ち、彼自身もファンに多くの幸福と感動を届けました。彼の勇姿とその戦績は、競馬ファンの心に永遠に刻まれ続けることでしょう。
今も京都競馬場の彼の石碑には、全人馬の無事を見守っていてほしいファンの姿が絶えず見られます。
15年くらい前(2010年頃)の京都競馬場にて。流石に画像が荒い・・